| (1)中洲 〔中洲神社〕 建てられたのは今から約四百年ほど前と伝えられています。社宮司社といわれておりましたが、明治十一年、地名をとって、中洲神社と改められました。 「鯛」はこの神社のお祭りのそえ物として出されるのです。 音、天博社という神社が、今の保育所の所にありました。 尾張藩主お参りした格式のある神社でした。 中洲のお祭りのおいさみが保育所から出発するのは、昔、天博杜から出発したならわしが残っているのです。 |
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| 太鼓打ち 「太鼓打ち」とは、太鼓を打つ人のことです。太鼓を打つ人は清らかな子どもでなくてはなりません。 中洲、須佐とも小学校五、六年の男の子と決められてきました。 金、銀のししゅうをほどこした着物を着て、あざやかな色帯を幾重にも肩からたれ流し、白たびをはいて、白鉢巻をきりとしめ、美しく化粧をした少年が、古式にのっとった動作で、笛に合わせて太鼓を打つのは、お祭りの大切な行事です。 |
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| (2)半月・中村・鳥居・東部 〔津島神社〕 津島市にある津島神社の末社となっています。 元禄のころ、須佐の家田孫大夫が建て、これに柳伊右衛門が協力したと伝えられています。 須佐神明記にはこんな話が書かれています。 「午頭天王寺」と書かれた御葭が須佐の浜に流れ着いたことが村中に知れわたった。 須佐の鯛祭りは、津島神社のお祭りの行事です。津島神社の大切な行事は、いさみと舞いの奉納があります。 |
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| 〔須男神社〕 須佐を開いた頬佐連が祖神をまつって須佐神社といいましたが、後に、日本武尊をまつって八剣社と呼ぶようになったといわれています。 神宝の古い鉾の柄に徳治二年(一三〇七)とかいたものがあります。明治十一年に現在の名となり、半月、中村、鳥居の氏神さまです。 例祭は、九月中旬の日曜日に秋祭りが行われ、たいこ打ちやいさみが奉納され、境内では、もち役げやカラオケなどが行われています。 〔白山社〕 〔土御前神社〕 |
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| (3)仰小佐 江戸時代に書かれた尾張徇行記(一七八九~一八二二)と、小佐については、小佐浦は須佐を越えて海辺にあり。全く谷間にあるゆえ小佐谷ともいえり。この地も小百姓ばかりにて、農事をもって第一の営んとす。 とあります。 山が海にせまり、山と山の間に開けた小佐谷は、昔から農業中心の生活であったことがうかがわれます。 小佐とは、小さな村という意で「小里」からつけられたといわれます。また、小佐と師崎の間の海岸の地名「いざ」から来たという伝説もあります。 小佐の海岸では、昭和6年夏、山本伝太郎さんにより奈良時代前期のものと思われる石器や土器が発見されており、古くから人々が住んでいたものと考えられています。 現在ある浄土寺は、昔の名前を東方寺といい、和銅(七〇八~七一五)のころに開かれた古いお寺といわれています。 |
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| また、氏神さまである神明杜は、元亀(一五七〇~一五七三)以前に建てられた神社です。古くから武将の崇敬が深く、室町時代には新田義貞の弟の脇屋義助も足利尊氏を討つために、この神明社で祈願しました。 小佐のお祭りは、七月十四日ごろに行われる「ぎおん祭り」と、十月第二日曜日に行われる神明社の「例祭(本祭り)」とがあります。 ぎおん祭りは、夕方、頭(かしら)と呼ばれ村の代表者とねぎさん(社守)を中心に、笛や太鼓でいさみをしながら、頭の家から神明社までをねり歩きます。 神明社の参道の両側には、各家の名前入りのちょうちんがかざられ、灯がともされます。村の人が三々五々お参りに訪れ、境内では子どもたちが花火などをして楽しみます。 また、ぎおん祭りの翌日は「おみよし祭り」といって、午後三時ごろからいさみを出し、おこわをむして、子どもたちに配っていました。現在では、ぎおん祭りの日に神社で配っています。 十月の本祭りも、ぎおん祭りと同じように行われ、太鼓をつんだ車に米俵をのせ、いさみを出して豊作や村の安全を願う神事が行われています。 昔は太鼓打ちもあり、六年生ぐらいの男の子二人が、力の強いおとながかついだ大太鼓を、振りをつけながら打っていました。 太鼓打ちに選ばれることは大変名誉なことでした。 しかし、戦争が始まり、人手(かつぐ人)がなくなったので、車に乗せて行っていましたが、若い衆(青年)が少なくなって、昭和三十七年ごろから太鼓打ちもなくなってしまいました。 そこで、現在では、いさみだけではさびしいので、車に俵や太鼓を乗せ、かざりつけをして、子どもたちが引くようにしています。 |
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今のお祭りのようす |
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| (4)初神 初神は昔、椒江(はじかみ)と書き、江戸時代の尾張徇行記にしよると、 椒江は、(本郷・須佐村の)八町(約九〇〇m)程北の山隈にあり。 とあり、小佐と同じように昔から農業中心の村でした。 「はじかみ」とは、生姜(しょうが)のことで、昔、この地区でしょうがをたくさん作っており、伊勢のしょうが糖に入れられたそうで、この名前がついたといわれています。 今でも、このあたりを「初神トンマ」といい、トンマ谷の奥に開けたところです。 トンマとは、田んぼの意味で、百々川(どんど川)にそって、田んぼの多い谷だったのでしょう。 また、須佐から岩屋方面への通り道で、谷の通すじに広がるように人々が住むようになったのです。初神のお祭りは、今は昔のおもかげはまったくなくなっていますが、昔は盛大に行われていたようです。 |
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昔の初神〔天保十二年(一八四一) |
今の初神 |
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| 氏神である初神神社は、旧暦八月十五日が例祭(秋祭り)だったのですが、当時、この地区では蚕をかっている家が多く、仕事の都合で、昭和七年ごろから四月三日の神武祭として、春の祭りに変更しました。 当時のお祭りは、山車や笛・太鼓のいさみがあり、豊浜の他の地区と同じように、太鼓打ちも行っていました。 区長さんの家から頭(かしら)の家や神社へねり歩き、大ぜいの人々が参加してにぎわっていました。 戦争後、人手が不足したり費用がかさむということから山車もなくなりました。 また、太鼓打ちも昭和三十五年ごろからやらなくなり、だんだんすたれていきました。現在では、区長さんや村の役員が来て、いさみだけを行っています。 また、旧暦六月十五日には、津島社のぎおん祭り(ちょうちん祭りともいう)がありました。 夜、一本の竹の枝に十個のちょうちんをつけ、合計二十本の竹(ちょうちん二00個)をかついだ若い衆たちが、いさみをやりながら初神神社と津島社を往複します。夜の暗やみの中にちょうちんの灯りが美しく映え、大へんにぎわう楽しい夏の祭りだったのです。それがすむと、夜中、「おみよしさま」といって、よしを 十二本(うるう年は十三本)用意し、川で水にぬらし、水をかぶった若い衆が村の家の台所に、人に見つからないように置きます。 よしを置かれた家では、縁起がいいので神棚にかざり、ごちそうは、若い衆たちが集めて回りました。 現在では、村のねぎさんが組から一人ずつ出て、神主さんののりとを奉納するだけになっています。 その他に、山の信仰の行者祭りも行われておりました。 昭和の初めまでは、若い衆が四年ごとに奈良県の大峯山に登りました。また、毎年八月十六日の夜、たくさんの赤いちょうちんを竹につるして行者峯(初神の東にある山)に登っていました。 しかし、これも戦争のため中止となりました。今では、村の役員のみで行っているにすぎません。また、、初神には稲荷神社があります。 この神社のお祭りは、十一月十五日に行われ、農家の人はいっさい山歩きや農作業をせず、豊作を感謝し、稲の穂を神前にそなえて、感謝祭を行っていました。 今では、各地から多くの信者が集まります。神社では甘酒をふるまって、喜ばれています。 |
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初神神社 |
昭和三十七年頃のお祭り | ||
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| 初神の北のはずれにある津島社 | 昔のちょうちん祭り | ||
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