| 中洲村の火事 中洲には、こんな話しが伝えられています。 江戸時代、中頭(洲)村には、お祭りにわらと杉の葉を使って、その年のエトのだし物を作るならわしがありました。 ある年のこと、畳二枚分もあるイノシシのだし物を作りました。お祭りの日、村の若い衆たちは、イノシシのだしをかついで村中をねり回り、その晩、中洲神社の屋根裏にかつぎ上げました。 その夜ののこと、若い衆たちがイノシシのそばで遊んでいたところ、灯の火がイノシシに燃え移り、これがもとで火事になって しまいました。 当時、この地を治めていた千賀の殿様は、師崎から家来と共に馬でかけつけ、「火事に見物いらんぞよ!」と、大声でどなられ ました。 この火事があってから、明治になるまで、中洲村では、祭りのだし物は作られませんでした。 |
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| 明治の初め、中洲村に森佐左衛門さんとその弟の佐兵衛さんという人が住んでおりました。 森さん兄弟は中洲村のお祭りに山車がないのをさぴしく思い、明治七年に山車を作りました。それはそれは見事な出来ばえでした。 ところが、この山車はちょっと変わっていました。というのは、この山車は舟の形になっていたのです。人々は、これを「お舟」と呼びました。「お舟」は、中洲村のお祭りを活気づけました。 ところが、明治十二年に中洲村でコレラが大流行し、二十七人もの死者が出ました。獲った魚は売ることもできず、人々は困りました。村にお金がなくなっていきました。 せっかく作った「お舟」を売ることになりました。須佐村半月にお願いして、五円で買ってもらいました。明治十四年のことでした。 ところで、佐兵衛さんは人を使って、打瀬船を作っておりました。 |
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| 「おもいつき」 「えいころさ」 森佐兵衛さんは、「はつかねずみ」を作った後も、一年おきに手持ちの材料で象などを作りました。佐兵衛さんを中心として、中洲で作るだけでなく、鳥居や高浜・新居へも出かけて、龍や虎の作り方を教えたとも伝えられています。 だしは一年おきに作られたこともあったし、数年おいてから作られたこともありました。また、作るものも、その年ごとに、その場の思いつきのように決められたりしたので、祭りのだし物のことを人々は「おもいつき」と呼びました。この「おもいつき」という呼び方は、更に昭和四十年代まで続きました。 佐兵衝さんは、「佐兵衛さ」と呼ばれることが多かったのですが、ニックネームで「えいころさ」とも呼ばれることがありました。 佐兵衛さんは、子どものころの名前を栄五郎といいましたし、一見、いいかげん(えいころ)にみえるやり方で物を作ったからです。しかし、佐兵衛さんの作る物はいつもすばらしいできばえで、人々を感心させました。 「えいころ」とは、「いいかげん」「無計画で見通しがない」という意味ですが、実は、佐兵衛さんの優れた技をほめたたえていたのです。 |






