鼠から鯛へ

 明治十四年に、「お舟」を売ってから、中洲村では山車のないさぴしいお祭りをしておりました。
 森佐兵衛さんは、「お舟」にかわる山車を作ろうと考えました。「お舟」を売ってから数年後に、小型のじょうぷな山車を作り上げました。この山車は、中洲村のお祭りの夜、若い衆によって引き回わされました。せまい路地を勢いよくねり回り、ときには民家にぶつかったり、横だおしになることもありました。 この山車は、「あばれる」ことで知られていました。あばれ山車は、昭和七・八年ごろ車輪が割れてしまったのでその後は使われなくなりました。

中州の山車
路地(せこ)が狭いので、
小型の山車でした。

祭りのそえ物の方は、明治二十年前後に「はつかねずみ」が作られてから、二年後には「象」のだし物が作られたといわれております。 その後、十余年間は、牛、虎、兎などの動物のだし物が作られたとも伝えられておりますが、確かではありません。
 明治三十年ごろから、これまでの動物のだし物にかわって、海の生き物が作られるようになりました。
 中洲は漁師の村ですから、土地柄に、ふさわしい海の生き物が作られるようになったのは自然であると思われます。また他の理由として、魚類の方が作りやすいこともあったと思われます。

 このころ作られた「おもいつき」は、イトヨリダイ、カツオ、マダイなどです。 大正の初めごろから海の中をねるようになりました。また、形もだんだん大きくなっていきました。
 しかし、今の鯛ほど大きくはありませんでした。このころは、だし物を中洲神社で作っておりました。神社から浜へ出る道はせまく、おまけにT字形の辻がありました。だし物を神社から浜へ出すのに、ときには辻を曲がり切れず、なや(魚の加工場)の屋根を越させたこともありました。
 昭和の、初めごろから胴内に人が入り、太鼓をたたき、三味線を弾き、笛を吹くようになりました。お囃子に合わせて海をねる様に見物の人々は大喜びをしました。
昭和9年のおもいつき 伊勢エビ

昭和10年のおもいつき 鯨

「伊勢エビ」と「くじら」
 昭和九年の「おもいつき」は伊勢エビになりました。 この伊勢エビはとても大きなものでした。伊勢エビの頭や胴を丸くするのにワラを使いました。特に頭の部分にはたくさんのワラを使いました。 海をねったところ、ワラや布が海水を含んでとても重たくなりました。海をねっている間はそれほどでもなかったのですが、海から陸に上がるときには、とても重たくなり、力自慢の若い衆たちも音をあげたそうです。
 昭和十年には、くじらの「おもいつき」が作られました。このくじらもとても大きなものでした。作った場所は西の浜べでした。
 潮を吹き上げるしくみにはとても苦心しました。胴の中に手押しポンプを入れ、人がポンプを押して潮を吹き上げるように考えました。何度も試運転しましたので、本番では海を泳ぎながら見事に潮を吹き上げ、見物人のかっさいをあぴました。
昭和十二年には中洲神社のごせん宮が行われました。
 せん宮というのは、神社を建てかえるとき、神様を移す式のことてす。 ごせん宮のときは、神社が新しくなりますので、お祝いをし
ます。このお祝いに、西・中・東組に分かれてだし物を作りました。 昭和七年から十年まで町長を務められ、中洲神社のごせん宮
にも尽力された方が、中洲西の大岩寅吉さんでしたので、その名にちなんだだし物ができました。
昭和12年 ごせん宮のだし物
左から
西組:大きな岩にとら
中組:社にとら
東組:桃太郎
召集令状
 昭和十二年、中洲神社のごせん宮の年、ごせん官のお祝いのだし物とは別に、青年たちは「おもいつき」を作りました。鯛のおもいつきでした。
 旧暦六月十日、盛大な祭りの行列が西に向かい、今の中洲西の停留所を過ぎたあたりをねっていたとき、自転車に乗った役場のおじさんが息を切らせてかけつけてきました。 おじさんの手には一枚のピンク色の紙がありました。召集令状(軍隊に入る知らせ)です。
 村役の衆、若い衆、見物の人々の視線は{せいに召集令状に集まりました。にぎやかなはやしは止まり、水を打ったように静かになりました。
 そのころ、日本と中国との間には、日華事変という争いが起こっていました。上海という所での戦いは激しく、両軍に多くの戦死者が出ていました。
 召集令状の来た青年も戦争に行けば、戦死するかも知れないのです。 こ年のお祭りは、例年とは違う雰囲気になりました。
 昭和十四、五年ごろ、日本は中国へ軍隊を送っており、中国との間で争いが起こっておりました。 また、アメリカやイギリスとも仲が悪くなり、戦争が起こりそうな気配でした。
 多くの若者に召集令状が届きました。
 召集令状が来て若者が出征するときには、親せきや友だちはのぼりを作って見送りました。
 のぼりには、戦死をしないで手柄が立てられるようにと願いを書きました。
 「おもいつき」の鯛を作るのに、布が高くて手に入らないため、出征ののぼりを寄付してもらいました。これを「出征鯛」といいました。

昭和15年のおもいつき 出征鯛

 太平洋戦争は昭和二十年に終わりましたが、それからも物の乏しい時代が続きました。
 食べ物は乏しくて、人々はおなかをすかしておりました。くつが買ってもらえない子どももありました。
 そんな中でも、「おもいつき」を作り、中洲の人たちを喜ばせ、元気づけようという気運がありました。
 しかし、「おもいつき」を作るのに、いちばんの問題は布を手に入れることでした。値段が高くて、とても買えないのです。そこで、村の役の人たちは、阿久比の紡績工場の社長さんにお願いして、布を寄付してもらいました。その布を使って、鯛のおもいつきを作るこ
とができました。
 昭和二十八年九月、十三号台風が「この地方をおそいました。中洲地区の被害は大へん大きくて、翌年二十九年のおもいつきは中止せざるをえませんでした。
 このようなできごとはありましたが、人々の熱意で続けられてきたのです。

昭和25年のおもいつき 中州分校で3、4年の子どもたちが記念写真をとりました。

笛、太鼓も楽じゃない
鯛のおなかの中に笛を吹く人太鼓をたたく人が乗りこみます。「人にかついでもらって楽でいいな。」と思うと、そうではありません。
 鯛が陸をねるときには、下からかつぎ手のたてるほこりが入ってきます。上からは真夏の太陽が照らします。布でおおわれているので、風は通りません。
 海へ入ると、かつぎ手の人たちは、本物の鯛が水中を泳ぐように、上へ下へ、右へ左へと動かします。 鯛がななめになると、中の人たちは立ったりすわったりしておられません。太鼓の人は片手で骨組みにつかまりながら、もう一方の手で太鼓をたたき続けます。笛の人たちは、足や体で姿勢を保ちながら笛を吹き続けます。かつぎ手も疲れますが、中の人たちも大へん疲れます。
笛を吹く人、太鼓をたたく人は水につかっても、ななめになっても止めません。このときこそ、勢いよく笛を吹き、太鼓をたたきます。
笛を吹く人、太鼓をたたく人は水につかっても、ななめになっても止めません。このときこそ、勢いよく笛を吹き、太鼓をたたきます。
 東部地区には、江戸時代から続いた山車がありましたが、古くなってしまい、明治になってから使われなくなりました。
猩々旗(猿に似た動物の旗)を立て、虎を染めぬいたハッピを着て、盛大に祝ったそうです。
 鳥居と東部地区で「おもいつき」が始められたのは、明治の中ごろと伝えられております。また、始まりのころには、中洲の「えいころさ」が作り方を教えに来たとも伝えられております。
 古老の話を総合して考えると、中洲で「おもいつき」が始まってから数年してから、鳥居や東部でも「おもいつき」が始まったと思われます。
 始まりのころは、その年のエトの動物の作りものが多かったようてす。 ネズミ、リユウ、トラなどの「おもいつき」が作られたと伝えられております。

トラがあばれた!
 明治時代のある年のこと、「おもいつき」のトラを作りました。
 旧暦六月二十日のお祭りの日、青年たちがかついで村中をねり回りました。
 ところが、その年の秋、大シケ(台風)がやってきました。浜辺に引き上げてあった小舟が強い風に吹き飛ばされ、たまたま近くにいた人にあたって、押しっぶしてしまいました。
 これを見ていた人たちは、「トラがあばれたんだ!」と、大さわぎになりました。
 このことがあってから、鳥居や東部では、「おもいつき」でトラを作ることはありませんでした。/td>
 明治の終わりごろから、「おもいつき」は陸の動物から魚類となり、形もだんだん大きくなっていきました。
 一年おきに「おもいつき」を作る原則はありましたが、時の村の財政その他の条件により中止されることもたびたびありました。
 また、「おもいつき」の中に人が乗り、笛、太鼓、三味線の演奏をするようになったのは、中洲地区と同じころで、昭和の初めだと伝えられています。
 鳥居、東部地区の祭礼は、旧暦六月二十日、二十一日の二日間にわたって行われてきました。 そこで、「おもいつき」に変化をも
たせることが考えられ、初日はマダイの形で活躍し、二日目には他の魚に変身させるようになりました。
 村の役の人たちや青年たちが、学校の図書館にある魚類の図鑑を見て、どんな魚に変身させるか決めました。
 実際に作ったり、かついだりするのは青年たちですから、青年の希望で決められることが多かったのてす。
 「今年はギットにしよう。」
と青年たちの意見がまとまれば、祭りの初日が終わったその夜のうちに色をぬり変えたり、ヒレを丸めたりして、変身させました。
 
家職(家業)どめ
 村の行事を行うとき、みんなが家の仕事をやめる約束のことです。
 命がけの仕事をする漁師の人たちは、約束を守る、助け合う、協力することを大切にしてきました。
 全員がそろって、村の行事をすることによって団結心を高めました。須佐では「家職どめ」、中洲では「家業どめ」といいます。
とりかじ回り
 鯛は陸上でも海中でも、「とりかじ回り」をします。
 「とりかじ回り」というのは、左回りのことです。決して「おもかじ回り」(右回り)はしません。
 「とりかじ」の「とり」と、「魚を獲る」の「獲る」の発音が似ているので、「とりかじ」が好まれるのだと思われます。
 船は左げん(左側)が神聖とされ、好まれます。右げん(右側)は不浄とされ、きらわれます。
 船で漁をするとき、網を引き上げて魚を獲る作業は左げんて行います。
 海で人の死体を見つけたとき、漁師の人たちは、手を合わせて拝み、自分の船にていねいに収容します。このときは右げんから引き上げます。なお、死体を引き上げた船は次の年に大漁になるといわれています。
 海に生きる人たちは縁起をかつざます。
 それは、魚を育て船を走らせる母なる海も、ひとたぴ怒り狂うと、船ごとのみこむおそろしい鬼神に七なるからです。
 自然をあなどらないように、どんな小さなことでも注意してきました。こんな気持ちの中から縁起が生まれてきました。
 「船おろし」は酉の日や寅の日が選ばれます。酉は、「魚を獲る」の「とる」 に通じます。
 また、虎は「千里行って、千里をかえる」といわれます。 出漁した船が無事、港に帰ってくることを願っているのです。

昭和十年代に入ると、日本は他国との関係が悪くなりました。
 昭和十二年のこと、「出征して戦っている人のこと、その人の家族のことを思うと、おもいつきを作って楽しんでいてはいけない。」という意見の人がいました。
 一方、いつ召集令状が来て、戦地へ行かなければならないかも知れない若者たちは、「戦死したら、もうおもいつきを作ることも見ることもできない。
ぜひ大きなおもいつきを作りたい。」という意見でした。
 結局、青年たちの意見が採り入れられ、特別に大きな鯛が作られました。東部地区で一四○反の大鯛になりました。鳥居地区のお
見事な大鯛でした。
 東部地区では、最初もっと大きな鯛を作り上げましたが、あまりにも大きいので、青年が総がかりでもかつぐことができませんでし
た。そこで、急きょ、一晩のうちに少し小さく作り変えたのです。
 これ以後、このような大鯛が作られたのは、昭和五十年に東京で行われた「日本のまつり」に参加したときだけです。

昭和10年のおもいつき  左 鳥居  右 東部

戦争前は、今の国道の南側はすぐ海になっておりました。
 砂浜が少しだけあって、水はすき通ってきれいでしたから、豊浜小学学校(昭和十六年に豊浜町立第一国民学校となる)の水泳実習は、この海で行われておりました。
 鳥居の鯛は、光明寺の前から海に入り、今の大学堂のあたりまでねっていました。
 東部の鯛は、今の公園のところから海に入り、長磯、極楽寺岩と二つのシマ (岩場)の沖を通って、待機している鳥居の鯛と合流しました。 長磯の沖は深くなっておりましたのて、ここを通りこすときは大変でした。 鯛が長磯の先端に近づくと、笛、太鼓、三味線はテンポを速めて懸命に演奏します。これに合わせて、かつぎ手は頭まで水にもぐるのもかまわず、一気に鯛を持ち上げ、押し進め
ます。船頭、はやし方、かつぎ手全員の呼吸を合わせて、難所をのり切るところがいちばんの見せ場でした。
 見物人も、同じように声を出して応援します。無事に長磯の先を回り切ると、いっせいに拍手をして、勇壮な若者たちをたたえました。
 今ほど楽しむことが多くなかった時代、人々は祭りに夢中になって喜んだのです。

 太平洋戦争の間、布が買えない、青年がいないなどの理由で「おもいつき」も中止されておりました。
 昭和二十五年、世の中が落ちつきを取りもどし、復興に精を出し、新しい国づくり、町づくりに励んでいました。
 「お祭りをやろう」「鯛を作ろう」という気運が盛り上がり、再び須佐の入江に鯛が泳いだのです。
 苦しい時代をのりこえた喜びに満ちあふれておりました。昭和二十六年、アメリカのサンフランシスコで平和条約が調印され、日本はアメリカの占領地から、独立国として認められるようになったのです。まだまだ物が不足している時代でしたが、自信を取りもどした人々は懸命に働いていました。
真鯛から黒鯛に
 これまで他の魚に変身していたのを、色をぬり変えるだけで黒鯛に衣がえさせるようになったのは、今から二十年ほど前からです。
 しかし、色をぬり変えるのも大変な作業です。なにしろ、一晩の間にぬり変えてしまうのです。一夜明けると、真鯛が黒鯛になり、また、新鮮な感じになります。
はやしに乗せて
 海が埋め立てられ、立派な港ができて、今は海をねることはできませんが、鳥居・東部の鯛が海をねっていたころのことです。
 鯛の胴内には、鼓二人、三味線二人、太鼓一人、笛二~三人が乗りこみました。 かつぎ手は七〇人~八〇人(鳥居)です。鯛の前進、ストップなどは大船頭の拍子木の合図で行います。
  オーソレソレ  オーソレヨー
  オーソレソ.レ  オーソレヨ-
と、かつぎ手はかけ声をかけて肩にかつぎます。背の低い人は肩より上になりますから、両子で持ち上げるようにします。
 ふざけ半分で、かけ声のかえ歌もできました。
       叱られて 叱られて   叱られて  ひっくりかやった
 先輩の若い衆からいつも叱られている小若い衆がうさ晴らしに作ったのでしょう。
 「おもいつき」が初めて「鯛祭り」と呼ばれるようになったのは、昭和四十五年の日本ジャンボリーが富士の朝霧高原で開かれたときからです。
 全国各地から二万人あまりの少年たちが集まり、郷土の芸能を紹介し合うプログラムがありました。東海ブロック代表として、豊浜の鯛が選ばれました。
 いざ、プラカードに題を書くときになって、鯛を作った人たちは困りました。
「おもいつきではピンとこないなぁ。」
「何と書こうかなぁー。」
「鯛祭りにしよう。」
こんな話し合いがあって、 「鯛祭り」と書くことに決めました。
 鯛と大漁旗百本が富士山をバックに躍動して、大好評でした。
 これ以後、「おもいつき」は「鯛祭り」と呼ばれるようにかなりました。
半月地区のお祭りは、旧暦六月二十日、二十一日、津島神社にその年の豊漁や区民の安全、繁栄を祈って行われてきました。
 祭りには「お舟」を使いました。これは千石船の形をした山車です。隣町の美浜町小野浦にもありますが、全国均にもめずらしいものです。
 知多半島は海運がさかんで、千石船によって、他国との交易をした基地がたくさんありますが、この須佐の入江もその一つでした。
 千石船の持ち主は中洲西に住んでおりました。この山車は中洲で生まれたものです。この山車には入りくんだ彫刻、ていねいな細工がほどこされております。船の横の部分には波の彫刻があり、千石船が大海原を進む様を表しています。彫金(金具を作ることと)や塗りもすばらしいものです。雨が降って仕事のできない日や夜に、簡単道具を使って彫金をしたのだそうです。まさに、手作りの「お舟」です。
 このような「お舟」を作るには、大へんな熱意と根気があったと思われます。また、完成までには、最い期間を要したと想像されます。
「お舟」今は内海にある郷土資料館に保存されています。

ねり回る「お舟」

 この「お舟」は長い間、半月の人たちに親しまれてきましたが、昭和十年以後は休止になりました。半月にはしばらく祭りのシンボルはありませんでした。(おいさみは行われておりました。)
 戦争も終わり、世の中が落ちついてきた昭和二十五年に複活し、二十年余り使われました。 古くなり、傷みもひどくなりましたので、昭和四十七年を最後に使われなくなりました。 大へん貴重なものですから、保存することになり、郷土資料館に納められました。

お舟のはやし
 半月の船ばやしは、お舟の中で上・下に分かれて演奏しました。
  上の段・・・大太鼓、大鼓
  下の段・・・笛、三味線、小太鼓
    曲目は、
 ねり歩き・・・「竹にすずめ」「貫一お宮」
        「数え歌」
 打ち込み・・・「とっちり」
 帰り道・・・・「竹にすずめ」
と、場面に合わせて演奏しました。
 今でもこれらを演奏しますが、楽譜はありませんので、先輩から教えています。
 祭りが近づくと、これらのじはやし方は毎日練習を重ねます。一人前になるのに数年かかります。
 昔は、どの地域でも同じてすが、祭りなどを通して先輩と後輩の絆ができました。しきたりを覚え、ひいては道徳も教えられました。若いときから参加することには意義がありました。

昭和五十一年、半月は中村とともに鯛のだし物を作りました。
 これまでの祭りのそえ物「お舟」にかわって、「鯛」になったのてす。
 長い経験をもつ、鳥居、東部の鯛を参考にして、いきいきした鯛を作り上げました。台車に乗せてあり、青年ちたの数が少なくても引き回わすことができるように工夫されておりました。
 昭和五十一年以降、毎年作られ、須佐の「鯛祭り」を見物に来る人々を楽しませています。

そろいのはっぴの青年たちに引き回される
半月の鯛
 中村には古くから山車がありました。この山車のかざりに龍のほりものがありますが、この龍には、次のような銘があります。

尾洲名台屋 瀬川治助
            重定

<当時は名のある彫刻師で、その作品は重宝がられたものであります。
 この山車がひき回わされるときには、次のようなはやし方が乗り込み、にぎやかな演奏をしました。
  大太鼓 一人(太鼓を兼ねる)
  小太鼓 二人
  鼓   一人
  三味線 一人
  笛    三人~四人
 この山車がお仮屋に向かうときには、「御所車のくずし」という曲を演奏しました。
 この曲は優雅な京の都を思わせ、この調べを聴くために、お祭りのたぴに遠くから来るるグループもありました。
 この山車も昭和三十七年を最後に東部屋から出されなくなりました。古くなったこともありますが、いちばんの理由は山車をひき回す青年の減少でありました。 それから数年間はだし物のない祭りが続きました。
 昭和四十年になると、山車は出せなくても、それにかわるものを出そうという相談がなされました。 そして、四十二年まで、小型の鯛が作られたり、花火が打ち上げられたりしました。また、消防の人たちにより、四十八年と四十九年には、「舟のだし」が作られております。
 が、いずれも最続きしませんてした。
 昭和五十一年、中村は半月と共に「鯛祭り」に加わることになりました。半月、中村、鳥居、東部と同じサイズの鯛が四尾そろうようになったのてす。しかし、まだ問確が残りました。青年の数が足りないという問題てす。
 これを解決するために、昭和五十六年、「中村津島祭り保存会」が設立されました。青年だけに頼らず、祭りを取り行う層をひろげ、みんなで盛り上げようということになったのてす。
 この会ができてから、中村のお祭りは順調に行われてきました。

中村津島祭り保存会設立趣意書
 戦後の急激な経済の成長は、私たち区民の生活環境や生活の様式に大きな変化をもたらし、私たちは物質面では恵まれましたが、日本人として、また豊浜人としてのかけがえのない大切なことを忘れてはいないだろうか。
 祖先伝来の美しい日本人の心や豊浜の風土や中村区民であることを忘れているような気がします。
 今は周囲を見回すと、企業においても、あるいは個人の精神面においても自己中心的な考え方しかできず、心の貧しさが目につきます。
 今、私たちは、日本の祭りにもなった「鯛祭り」を考えるとき、その基本は思いやりの心を原点とした連帯の輪を拡げることにより美しい豊浜人の心を取り戻し、郷土の歴史と伝統を守ることにより区民全体の和を得ることではないだろうか。幸いにも、当地には歴史と伝統にはぐくまれた全国に誇り得る「鯛祭り」があり、また、当区には山車もあります。祭りは地域の真心であり、シンボルであります。そんな祭りに中村区民がそろって参加し、郷土文化の保存継承をすることによって、区民の連帯意識と思いやりの心を育てる基礎となることを確信いたします。

昭和五十六年 中村の鯛

露払い・大船頭・船頭
露払い
 行列の先頭を進み、けがれを払い清める役割の人です。二人いて、太い真竹を持っています。

大船頭
 「鯛」を船にたとえ、鯛の動きを指図する人です。この役の人は一人で拍子木を持ちます。
 拍子木の合図で、前進・停止・とりかじなどを知らせます。

船頭
 大ぜいで動かす鯛は、大船頭の合図だけではゆきわたりませんので、大船頭を助け、けが人の出ないようにします。

鯛の勢ぞろい
 昭和五十一年は鯛まつりにとって大きな出来事がありました。
それは、半月、中村でも鯛まつりが行われるようになったことです。
 半月は「お舟」が古くなり、中村は青年が少なくなり、それぞれ休止していました。
 鳥居では鯛祭りの中心になる青年の数が少なくなり、大きな鯛は作れない状況にありました。高浜・新居でも、海の埋立てと車の増加で大きな鯛は作れなくなっておりました。
 須佐の四地区では、長さ八メートル、高さ三・五メートルまでの鯛をそれぞれ一尾ずつ作ることに決めました。 これに中洲の鯛を加えると、豊浜地区で毎夏五尾の鯛が作られるようになりました。 五尾の鯛のそろいぷみは、豊浜の鯛まつりを世間にアピールすることになりました。
 どこでも、若者が少なくなり、鯛りがピンチになっている中で、先人の作ってきた祭りを引継いでいこうとする人々の知恵と努力があったのです。
昭和60年 
左から
鳥居
東部
半月
中村

おいなぁ豊浜


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